雅楽 楽家について
日本文化には、あらゆる領域に技芸を独占する家があり、その家芸の相伝が、いわゆる秘伝として伝承されてきました。例えば、歌舞伎・能・浄瑠璃などが思い浮かばれると思います。そのなかでも雅楽の家と秘伝は、最も典型的な存在であり十二世紀の中頃には、それぞれの楽家の家芸は、きわめてきびしく固定していたものと思われます。
そもそも楽家というのは、雅楽を伝承してきた家系で、京都方(宮廷・京都)、南都方(興福寺・奈良)、天王寺方(四天王寺・大阪)に属する雅楽家を三方楽人(さんぼうがくにん)と言われ、明治になって宮内省雅楽部が組織され三方楽所の楽家は東京へ移り、江戸幕府の紅葉山楽人と合流して宮内省雅楽部に編成され、現在は宮内庁式部職楽部として活動しております。
京都楽人安倍李尚があらわした『楽家録』に当時の三方楽人とその家芸が書かれています。
京都楽人 豊原家=笙、安倍家=篳篥、大神家・山井家=龍笛
多家=神楽歌・舞・和琴
南都楽人 東家・辻家・中家=笙、
上家・芝家・奥家・西京家・井上家=龍笛
窪家・久保家・北家=篳篥
天王寺楽人 薗家=笙・左舞、林家=笙・右舞
太秦姓東儀家=篳篥・右舞、安倍姓東儀家=篳篥
岡家=龍笛・左舞
このほかに、南都楽人に右舞だけを担当する右方人と呼ぶ、喜多・新・乾の三家と、寺侍藤井・後藤に二家があったようです。
江戸時代になると、三方楽所の楽人は上芸・中芸・次芸の三階級に分けられ、上芸・中芸の者には芸料が加給される仕組みでした。この階級を決定するのが三方及第あるいは楽講とよばれる全員参加型の実技試験制度でした。寛文五年(一六六五年)に始まり、慶応元年(一八六五年)まで特別な事情がないかぎり四年ごとに行われます。
楽講は、各回で調子を変えながら、壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調(天保以後は太食調も)の順に日を改めながら行われました。課目は三管(笙・篳篥・龍笛)のみで、助奏として鞨鼓・太鼓のみが演奏され、曲目はすべて左方楽(唐楽)であった。上芸・中芸のいずれを受験するかをあらかじめ決め、楽講が終わった後の入札で過半数を得れば及第である。入札は各方八名が自分の属している以外の二方の受験生に対して入札するものであるが、公平を期するために上芸者のうちその年に助奏をしなかったものが最終回の楽講の前に選ばれてさらに誓状を提出していました。試験当日になってくじ引きで曲目と演奏者の組み合わせが決定されるため、左方楽の全曲目について修練を積まねばならず、したがって楽講は雅楽の伝承と洗練に大きな役割を果たしてきました。
三方は地域別の流派のようなものであったし、その中でも家ごとに秘伝秘曲の伝承をする一種の家元制が行われていました。しかし三方及第はそうした流儀を越えて技を競い批評し合うシステムであったと考えることができ、これは日本の伝統芸能の中では特異なものであるようです。
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聖徳太子
推古天皇30年(622)2月22日は聖徳太子のご命日と伝えられています。
宗祖・親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主(日本のお釈迦さま)」と敬われており、聖徳太子に関する多くの和讃を残されています。また、正嘉元年(1257)、聖徳太子の伝記を記した『上宮太子御記』という書物を書写しています。
その中には、磯長にある聖徳太子廟に太子自身が書き残したとされる「廟崛偈」が収められています。(「廟崛偈」の一部を抜粋した、「三骨一廟文」といわれる親鸞聖人の真蹟も現存しています。)
大慈大悲本誓願 (大慈大悲の本誓願は)
愍念衆生如一子 (衆生を一子のごとく愍念す)
是故方便従西方 (是の故に方便して西方より)
誕生片州興正法 (片州に誕生して正法を興ず)
廟崛偈に興正という文字がでてきますが、江戸時代の興正寺では、聖徳太子の偈文から興正寺の寺号をつけたと説かれていました。
廟崛偈に声明の節を付けて「大悲段」という曲を作成し、多くの功績とともに仏教興隆にも尽力されたご生涯を振り返りながら、ご遺徳をお偲ぶ法要にもちいていました。
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師の願い
声明(お経等に節をつけて唱える)の師匠から拝借した天台宗の声明本に『九條錫杖』がある。
盂蘭盆会に施餓鬼法要として「九條錫杖」が用いられるのだが、九條全曲唱誦すれば一時間近く要する曲である。
我々の声明の源流は天台声明であるのだが、師匠は京都大原に通われ天台声明を学ばれた。『九條錫杖』は昭和60年2月9日に購入し、同年3月7日午前大原実光院に於いて学ばれている。声明本に書き込みがあり、「真宗では願生偈にこの節をつけている。永らく法要で使っていないので習礼をしてどこかで使ってみたい。」とある。
『魚山余響』に
「願 生 偈
此本ハ就西本願寺先御門跡三回忌墨譜依懇望以功音錫杖新書之畢
享保十二丁末年二月 日 大僧都 珍雄
右信解院殿御三回忌ノ時ナリ 信順院殿懇望ニ依リ製セラレタルナリ珍雄ハ后ニ城南院大僧正ト申ス幸雄ノ弟子ナリトキヽツタヘタリ」
信解院(本願寺第十四世寂如)三回忌の時に信順院(本願寺第十五世住如)の懇望により享保12年(1727)珍雄が、九條錫杖の譜を願生偈につけている。
近年用いることがない声明曲であるが、師の願いを和鳴会で実現してみたい。
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